創業者のご紹介 〜 野澤 一郎伝 〜

第2章 母校に多大な貢献

若き日の野澤一郎(東京工業大学)

若き日の野澤一郎(東京工業大学)

野澤一郎は、母校である本郷中学校と真岡高校に多大な貢献をしている。

本郷中学校の校歌は1954(昭和29)年に制定されたが、「筑波男体まえうしろ 流れも清き鬼怒川の 若鮎踊る滝つ瀬に」という歌詞は野澤一郎によるものである。校歌の直筆書が正面玄関に掲げられている。

一郎は絵画、随筆、長唄等に秀でる一方、青春時代には剣道やボート、スキーに親しむスポーツマンであった。昭和33年、巴組鐵工所創立40周年記念として、当時の最先端技術であったダイヤモンドシェル構造の体育館を母校に寄贈し「五常郭」と名付けた。「五常」とは儒教の仁・義・礼・智・信を意味する。体育館の前には創立記念碑が建てられており、幼少の頃の一郎が身体も意志も弱く、成績も良くなかったところから「これはならぬ、これではならぬ」と発奮して努力を重ねた事が記されていた。昭和59年、本体育館は建替えられ、ダイヤモンドトラスによるかまぼこ型体育館として生まれ変わったが、石碑は現在も本郷中学校に残り、創立記念講話として毎年一郎の功績が語り継がれている。

本郷中学校の後、一郎は真岡高校に進学、次いで東京工業大学に進学する。卒業後は千代田瓦斯株式会社に入社、29歳の時に独立して巴組鐵工所を創設する。一郎の出身地である旧本郷村では、仏の汗薬師が信仰を集めていた。村人の為に願い事をかなえてやりたくて化身の本尊薬師如来像が汗をかくという。隣には産土神を祀った高お神社が同居しており、境内には一郎が巴組鐵工所を設立した大正6年に献燈した灯籠と、半世紀後に奉納した句碑があり「夢多き頃の名残りや燈の文字」と刻まれている。裏には「私が29歳の時空拳自立、献燈して神に誓いを立てた。今はその名残を句碑に託して 野澤一郎」としたためられている。

事業家として成功した一郎は母親を大切にした。東京中野の住まいに年老いた母が訪れ「お前に何一つ財産らしいものをやらなかったのに、どうしてこんな立派な家ができたの」と尋ねると、一郎は「これほど立派なものをくれているのに忘れるなんて」と応えた。母が意味を理解できずにいると、一郎は「これほど立派なものが目に見えないかね」と、胸をぽんとたたいて母に抱きついた「立派な体をもらった」という意味を理解できた母は涙し、親子で抱き合ったという。

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