創業者のご紹介 〜 野澤 一郎伝 〜

第3章 絵画は日展入選の腕前

自宅の庭前でスケッチする野澤一郎

自宅の庭前でスケッチする野澤一郎

野澤一郎は、スポーツ、文芸にも親しんだ人だった。特に絵画は趣味を超えた腕前だった。日本画を学び、次いで洋画を石川彌一郎画伯に師事して学ぶ。太平洋画会の展覧会で入選、その後の作品で同会の会員推薦となる。1957(昭和32)年には丸善画廊で古希記念の個展を開いた。


その後、日展に作品を出品、1967年の第10回日展出品作「富士四合目」と、翌年同点出品の「日光雪景色」が連続入選する。富士四合目は「八十翁の日展初入選」として紹介され話題となった。

絵画ばかりでなく、書においても力強い、勢いのある作品を残している。母校である本郷中学校体育館や、東京工業大学剣道場には一郎の書が現在も掲げられている。

一郎は随筆風の文章「写生巡礼」で、終戦直後に何も手につかず、絵筆を持って写生旅行に出た事を記述している。「まず郷里下野の東汗にある薬師堂の境内から仁王門を描いた。これは茅葺屋根であったが、この薬師様は祈願が叶えば仏体に汗をかくというので汗薬師と称せられ...」と述べている。次いで真岡の大前神社に絵筆を運んでいる。

終戦直後の心境について、一郎は自著「追善」で「家も工場も焼き払われ、かけがえのない倅までも殺されていながら、都大路を疾駆する進駐軍を恨む気にもなれず...殊勲甲の戦果をあげた倅を褒めてやる余裕も持てず、捕虜になって居れば帰ったであろうものをと...」と述べている。

一郎の長男、流磨は青年将校としてニューギニアに派遣され、27歳で終戦1年前に戦死した。父親として事業を継いで欲しいという思いはあったが、当の流磨は「死んで還るか金鵄勲章ですよ」と勇んで出征したのだ。遺品として届いたのは、入隊の時の持たせた象牙の認印だけだった。「追善」は息子の菩提成就を願って書かれた小冊子で、次のような歌も記されている。

みんなみの 空にちりしか桜花 大和心をとはにのこして

一郎は後に妻の喜美穂にも先立たれ(昭和34年4月)、亡き妻を偲んで小冊子「妻を亡くして」を著した。葬儀の時に妻の体を外出着で正装させ化粧させるが、見違えるほど美しくなった‐と記す。そして「納棺式の時、私は人目も憚らず最後のキッスをして口を湿してやった。頬ずりをして別れたが、冷やっときたその感触はいつ迄も忘れられぬ。病む妻に氷割る世の寒さかな」と綴っている。

一郎は、1978年5月20日に他界する。享年91歳。この日は真岡高校の(財)野澤一郎育英会の奨学資金贈呈式の日だった。開会直前に会場に訃報が届く。当時の同校校長・石川一正氏は弔辞で「思いがけない訃報に接し愕然としてただ驚くばかりでありました。...一同静かに黙祷を捧げ、ご冥福をお祈りし申し上げました」と追善の言葉を述べている。

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